第二次世界大戦の解説

第二次世界大戦とフィンランド

フィンランド

 第一次世界大戦中にロシア帝国が崩壊したことで、フィンランドは独立を果たした。

 しかし隣国ソ連の軍事力が強大なことに変わりはなく、第二次世界大戦が始まると、ソ連はエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国、そしてフィンランドに軍事基地の提供や領土割譲を要求した。

 フィンランドには国境近くの領土割譲、国境からの後退、ハンコ岬の貸与という要求が出された。ハンコ岬はフィンランド湾(奥にヘルシンキやレニングラードがある)の入り口に位置する重要拠点だった。フィンランド政府は要求を拒否した。

冬戦争

 要求を拒否されたソ連は、1939年11月30日に宣戦布告なしでフィンランドに侵攻を開始した。「冬戦争」の始まりである。

 フィンランド軍はマンネルヘイム将軍指揮の下、気温マイナス40度の中塹壕に籠もって抵抗した。地形を最大限に利用し、白い服を着たスキー部隊による火炎瓶攻撃でソ連軍を破り、ソ連軍の犠牲者は2万人に上った。

 フィンランド軍は十倍の兵力のソ連軍に対し、「マンネルヘイム線」で2か月間持ちこたえた。さらにイギリスとフランスが援軍を送り込もうとしたため、ソ連は講和に応じることになった。

 こうして1940年3月13日にモスクワ講和条約が結ばれた。フィンランドは持ちこたえたといっても、強大なソ連に対しては不利な条件を飲むしかなかった。こうしてカレリア地峡、フィンランド湾東側諸島の割譲、ハンコ岬のソ連への30年間の貸与が定められた。カレリアのフィンランド人42万人は引っ越しを余儀なくされた。

 さらにソ連は北欧軍事同盟の禁止、ハンコ岬への鉄道移動の許可を要求した。この頃、既にバルト三国はソ連に組み込まれていた。

 この国家存亡の危機に助け船を出したのは、ナチスが率いるドイツだった。

継続戦争

 1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻を開始した。フィンランド軍は50万の兵力でドイツ軍と連携してソ連に攻め込んだ。フィンランド軍はラドガ湖北部に進撃し、ドイツ軍はレニングラードへ向かった。

 ドイツはフィンランドがドイツ側に立って戦線に加わったと発表し、レニングラード包囲に加わるよう要求した。しかしフィンランドは侵略者と見なされたくなかったので、中立の維持と自衛戦争であることを強調し、レニングラードには進軍しなかった。

 それでもフィンランドの行動は国際社会で好意的に見られることはなかった。かつてフィンランドを支援したイギリスは、今度はフィンランドに宣戦布告した。

 危機に陥ったソ連はフィンランドに和平を提案したが、フィンランドはこれを拒否した。やがてドイツ軍がスターリングラードで敗退したとの知らせを受け、講和の道を探るようになった。だがフィンランドは食料をドイツに依存していたため、ドイツに反対されると戦線離脱は難しかった。

単独講和へ

 1944年6月に連合軍がノルマンディーに上陸すると、ソ連軍の反攻が始まった。フィンランド軍は戦線を突破され、カレリア地方を失った。

 今度はソ連が強気になった。フィンランド全土を占領するか、フィンランドが無条件降伏するまで戦争をやめる気はないと宣言した。一方でドイツがフィンランド支援を提案してきたが、その引き替えは同盟の締結だった。

 フィンランドはドイツの了解なしに単独講和を結ばないことを条件に、ドイツから急降下爆撃機と対戦車兵器を得た。フィンランド軍はこれらの兵器を使ってソ連軍の攻撃を食い止めることに成功した。

 1944年9月、リュティ大統領に代わってマンネルヘイムが大統領となった。マンネルヘイムはドイツとの約束を破り、ソ連の厳しい条件を受け入れて休戦条約に調印した。ドイツ軍は報復にフィンランドの街を破壊して帰っていった。

 戦後、ナチスに協力した戦争犯罪人としてリュティ元大統領に禁固10年の判決が下った。しかし国民は彼が祖国を守ったことを知っていたので4年で釈放され、後に彼が死去すると、ソ連の反対を無視して国葬が執り行われた。