第二次世界大戦の解説

ルクセンブルクと第二次世界大戦

ルクセンブルクと第二次世界大戦

 ルクセンブルクはドイツ、フランス、ベルギーの間にあるとても小さな国である。

 歴史上、ドイツ連邦に属したり、ベルギー王国に属したりしながら、ドイツとフランスの緩衝地帯の非武装中立国として独立を認められた。国内にはフランス文化とドイツ文化が混在していた。

 正式名は「ルクセンブルク大公国」で、立憲君主制ながら大公が内閣と協力して政治を行っていた。当時の元首はシャルロット女大公である。

開戦と亡命

 1940年5月10日にドイツ軍が国境を突破してくると、大公一家と政府は間一髪でフランスに逃れた。ドイツ軍の侵攻はある程度予想されていたものの、非武装中立国のルクセンブルクに防ぐ手立てはなかった。国民に指示を出すことも、亡命を伝える暇もなかった。

 残された国民は途方に暮れ、一部はフランス軍に従って国外に避難した。

 ルクセンブルクの国民はフランスに期待を寄せたが、まもなくフランスは降伏する。大公は中立国のスペインを経て、ポルトガルへ亡命した。

 国内の仮政府はとりあえず大公を帰国させたいと考え、ドイツに許可を求めたが、返事はなかった。

ドイツの占領政策

 このとき、ドイツはルクセンブルクの併合を決めていた。

 ルクセンブルクは前年に独立百周年を祝ったばかりだったが、強制的にドイツ化が進められた。公用語はドイツ語のみとされ、街の名前や大通りの名前、新聞、雑誌、看板に至るまで、ドイツ語に改められた。学校からフランス語の授業はなくなり、ついには個人の氏名までドイツ語に変えなければならなくなった。

 また、政党や憲法、国会が廃止された。ドイツの管区指揮官は、ルクセンブルクという国家の消滅を宣言した。

 国民はこれに対して、独立百周年のバッジをつけることで抵抗の意志を示した。これはヒトラー・ユーゲント(ナチス少年隊)の怒りを買い、暴力事件がたびたび発生した。

 ドイツはルクセンブルクの市民が「祖国ドイツへの復帰」を希望していることを強調し、ドイツ国民運動への参加を強要した。運動に参加しない公務員は解雇され、店舗や工場は閉鎖された。

 1941年の国勢調査では市民に「模範解答」がついた調査用紙が配布された。回答しない者、記入を間違えた者は処罰すると予告し、期日が近づくと新聞はドイツに反抗した若者が強制収容所へ送られたことを報じた。

 だが、このことでルクセンブルク市民は団結を強めた。10月10日、市民の不穏な気配を感じ取ったドイツ管区指揮官は調査票の回収を断念することになった。

 ドイツはルクセンブルクのゲルマン化を諦め、弾圧する方針に切り替えた。若者の徴兵を行い、抵抗運動を行った活動家数百人を処刑し、数千人を強制収容所に送った。

亡命政府の抵抗

 大公と亡命政府は、ドイツのゲルマン化政策を見て中立政策を放棄することを決めた。

 イギリスに渡り、BBC放送で初めて国民に向けてルクセンブルク語で演説を行い、拠点をカナダのモントリオールに移した。

 亡命政府はモントリオールとロンドンで精力的に行動を起こした。1941年には国民に向けたBBC放送が週に1回行われるようになり、1943年には毎日になった。イギリス、アメリカ、カナダの世論にルクセンブルクの歴史と現状を訴えた。

 ルクセンブルクは非武装国だったが、150名の志願兵が集まった。志願兵は「ルクセンブルク中隊」としてベルギー第一旅団に加わった。

 オランダ・ベルギー亡命政府と関係を強化し、1944年9月5日にはベネルクス協定を締結した。

ルクセンブルク解放

 1944年9月、ルクセンブルクはアメリカ軍によって解放された。

 しかし、アメリカ軍の前進は止まり、ドイツ軍の反撃が始まった。アルデンヌの戦いの舞台となったルクセンブルクは、建物の3分の1が破壊された。ルクセンブルクの北西10キロメートルではバストーニュ包囲戦が起こっていた。

 ルクセンブルクは第二次世界大戦で多数の国民を失ったが、独立を守り抜いた。戦後、ルクセンブルクは徴兵制を導入し、非武装中立規定を破棄した。また、ドイツ支配に国民が抵抗を示した10月10日は「国民連帯の記念日」となり、毎年盛大に祝われている。