第二次世界大戦の解説

第二次世界大戦とギリシャ

 ギリシアは第一次世界大戦で連合国側として参戦し、オスマン帝国から多くの領土を奪い取った。オスマン帝国は革命で滅ぼされ、トルコがその地位を継承した。

 1940年10月、イタリア軍がアルバニア国境からギリシャに侵攻を開始した。ギリシャは連合国側で戦争に加えられることになった。ギリシャ軍は総力で攻撃を撃退する。

 しかし、この様子を見ていたドイツは、バルカン半島をイタリア軍に任せておくわけにはいかないと考えるようになる。ドイツはソ連への攻撃を延期し、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻することになる。

ドイツの侵略

 1941年4月6日、ドイツ軍がギリシャに侵攻を開始した。ギリシャ軍はイギリスの援軍と共に抵抗したが、4月27日に首都アテネは陥落した。アクロポリスのギリシャ国旗は降ろされ、ハーケンクロイツが掲げられた。

 クレタ島は最後まで抵抗を続けていたが、ドイツの落下傘部隊に占領された。

 ギリシャは枢軸国であるドイツ、イタリア、ブルガリアに分割統治されることになった。大部分はドイツが支配し、イタリアはペロポネソス半島、ブルガリアは東マケドニアを支配した。首都アテネは三国による共同統治とされ、実質的にはドイツが支配した。

 ギリシャ国王と政府はまずクレタ島に避難し、その後ロンドンに亡命した。

占領下のギリシャと抵抗運動

 ドイツ軍はギリシャの鉱物資源や食料を奪い、国民は飢餓に苦しむことになった。ギリシャ全土では20万から30万人の死者を出し、アテネでは道路に死体が横たわっている光景が日常となった。

 ギリシャ経済は壊滅し、市民を強烈なインフレが襲った。1943年にパンの値段が1300倍、翌年には340万倍に跳ね上がった。苛烈なドイツ軍の占領政策には、同じ枢軸国であるイタリアの首相ムッソリーニですら不満を持っていた。

 ギリシャの抵抗運動は他国より激しかった。共産党を中心に1941年9月には民族解放戦線が組織され、翌年4月にはギリシャ民族解放軍が結成された。これらの抵抗組織には、ギリシャ人口の3分の1にあたる200万人が参加した。

 レジスタンスは1942年11月にアテネとテッサロニキを結ぶ鉄道を破壊し、北アフリカのドイツ軍補給路を遮断することに成功した。ギリシャ民族解放軍は山岳地帯に勢力を拡大し、支配地を「自由ギリシャ」と称した。

ふたつの抵抗組織

 ギリシャのレジスタンス組織は共産党系の民族解放戦線と、右派の国民民主ギリシャ同盟が存在していた。イギリスと亡命政府はギリシャが共産党の手に落ちるのを嫌い、民族解放戦線への支援を打ち切った。

 民族解放戦線は他のレジスタンス組織に攻撃を加え、ギリシャ国内は内戦状態になった。民族解放戦線は、自分の組織以外の者はすべて敵と見なすようになっていた。

 これに乗じたのがドイツで、傀儡政権は治安維持のために市民に治安大隊への加入を呼びかけた。イギリスも治安大隊への批判を控えた。治安大隊には、民族解放戦線に恨みを持つ市民が加入した。

 1944年10月、ドイツ軍はギリシャから撤退した。

 このときギリシャの大部分を支配していたのは民族解放戦線だった。しかし、ソ連はギリシャ共産党による権力奪取を望んでいなかった。連合国間の取り決めにより、ギリシャはイギリスの勢力圏となることが決定されていたのだった。

 新政府は民族解放戦線排除の動きを見せた。

12月事件

 1944年12月、民族解放戦線の呼びかけによってアテネでデモが行われた。このときに無防備な市民に向けて警官隊が発砲し、十数人が殺される事件が起こった。

 この「12月事件」をきっかけに、アテネは政府軍と民族解放戦線の戦場となった。

 この状況に対し、イギリスは武器と兵士をギリシャに送り込み、政府軍を支援した。次第に民族解放戦線は劣勢となり、ついにアテネから撤退した。翌年2月には政府と協定を結び、民族解放戦線の武装解除が決まった。

 しかし事態は収束せず、今度は左翼・共産主義者に対する「白色テロ」が始まった。戦争中に民族解放戦線に加わった者は次々と襲撃された。政府は白色テロを黙認し、ギリシャは強烈な反共産主義国家に変貌した。