第二次世界大戦の解説

第二次世界大戦とバルト三国

 バルト三国は、バルト海に面するリトアニア、ラトヴィア、エストニアの三国を指す。

 三国とも第一次世界大戦で独立を果たしたが、ドイツとソ連の間に位置するため、常に両国の脅威にさらされることになった。そこでバルト三国は結束して独立を維持しようとした。

 エストニアとラトヴィアは防衛条約を結び、さらにソ連と不可侵条約を締結した。リトアニアも、ソ連と不可侵条約を結ぶ。ドイツでヒトラーが政権を取ると、バルト三国は協力条約を結んで結束を強めた。

大国の狭間で

 イギリスとソ連はバルト三国を自分たちの陣営に引き入れようと画策する。しかし、バルト三国はドイツとの関係維持に努めた。

 1939年3月、ドイツに最も近いリトアニアがドイツと不可侵条約を結ぶ。このときドイツは対ポーランド軍事同盟も提案してきたのだが、リトアニアは断った。リトアニアに続いて、エストニアとラトヴィアもドイツと不可侵条約を結んだ。

 しかしドイツとソ連は双方の影響圏を確認し、秘密協定を結んでいた。ドイツがポーランドの一部を得る代わりに、バルト三国はソ連のものになると決められていたのである。

 当時、バルト三国にはドイツ人も居住していたが、次々と本国へ引き揚げていった。

ソ連に占領されたバルト三国

 1939年11月にソ連がフィンランドに侵攻した。

 バルト三国は、国際社会がこれにどのように対応するのか注目していた。フィンランドの次のターゲットがバルト三国であることは明らかだったからである。

 バルト三国の期待に反し、イギリスやフランスがフィンランドに支援の手を差し伸べることはなかった。

 ヨーロッパの大国であるドイツ、イギリス、フランスいずれにも期待できないことがわかったバルト三国にとって、もはやソ連に抵抗する手段は何もなかった。1940年6月、バルト三国はソ連に全土を占領された。

 ラトヴィアとエストニアの大統領はソ連に連行されていった。リトアニアの大統領は脱出に成功し、アメリカに亡命した。

 バルト三国はソ連の構成国に組み入れられた。企業は国有化され、土地は農民に分配された。数万人がシベリアに送られ、聖職者は逮捕された。

ドイツの侵攻

 1940年6月、ドイツ軍がソ連侵攻を開始した。

 バルト三国の市民はドイツ軍を解放者として歓迎した。リトアニアでは3万人が進んでソ連軍との戦いに志願した。エストニア人、ラトヴィア人もドイツの武装親衛隊に加わり、ソ連との戦いに参加することになった。

 しかし、ドイツはバルト三国の独立を認める気はなかった。独立指導者は逮捕され、ユダヤ人は強制収容所へ送られた。一部のユダヤ人はソ連に逃げ込んだり、日本を経由してアメリカに亡命した。

 このとき、リトアニア日本領事館の杉原千畝はユダヤ人に日本を経由するビザを発行して多くの命を救うことになる。

ソ連の再占領

 1944年、反撃に転じたソ連軍はバルト三国を再占領した。

 このとき、ドイツ軍に徴用されていたエストニア兵士は、中立国スウェーデンに逃げ込んだ。しかしスウェーデンはソ連の圧力に屈し、兵士たちを引き渡してしまった。

 バルト三国の多くの市民はソ連軍に加えられ、ドイツと戦うことになった。

 こうしてソ連、ドイツ、ソ連に占領されたバルト三国は、第二次世界大戦で人口の5分の1を失った。さらにバルト三国はソ連の構成国に組み入れられた。バルト三国が再び独立できるのは、ソ連の崩壊を待ってからのことになる。