第二次世界大戦の解説

第二次世界大戦とポーランド

ポーランド

 第一次世界大戦で敗北したドイツは西プロイセンを失い、東プロイセンは飛び地になった。逆にポーランドは西プロイセンの大部分を得たことで、バルト海への道を確保することができた。この地域はポーランド回廊と呼ばれた。

 ドイツはポーランドに対して、ポーランド回廊に高速道路や鉄道を敷設すること、西プロイセンの主要都市で自由都市になっていたダンツィヒのドイツ併合を要求した。そして1934年に締結していた不可侵条約も破棄した。

 ドイツはオーストリアを併合し、チェコスロバキアを占領していたので、次の目標がポーランドであることは明らかだった。そこでイギリス首相チェンバレンはポーランドの独立を保証すると宣言し、フランスもこれに続いた。

ドイツのポーランド侵攻

 ドイツ軍がポーランド領内に侵入したのは、1939年9月1日午前4時45分のことだった。この日時が第二次世界大戦の始まりとされている。宣戦布告はなかった。

 数時間のうちにドイツ軍は制空権を掌握し、ポーランド軍の飛行場を破壊した。

 ヒトラーはポーランドを占領してもイギリスが参戦することはないと考えていた。この頃のイギリスは戦争の準備が整っておらず、フランスも同様だった。しかし両国は二日後にドイツに対して宣戦布告を行った。

 ポーランド軍はブィドゴシュチでドイツ軍撃退に成功したが、ドイツはこれを「血の日曜日」と名付けて再占領し、市民400人を報復として射殺した。

 イギリスとフランスはポーランド軍が敗退する姿を見て、ドイツへの攻撃を控えることにした。フランス軍はマジノ線まで後退してしまった。ポーランドは独力で戦わなければならなかった。

 9月17日、不可侵条約を破棄してソ連軍がポーランドに侵入した。

 ソ連軍の兵力はドイツ軍よりも大きく、東西から攻撃を受けたポーランドは絶望的な状況に追い込まれた。ポーランド政府は友好国ルーマニアに逃げ去った。

 それでもポーランド軍は激しい抵抗を見せ、三週間後に首都ワルシャワが陥落した。ドイツ軍はポーランド侵攻で45,000人の死傷者を出し、多くの戦車と航空機を失った。

占領下のポーランド

 ポーランド西部はドイツに、東部はソ連に併合されることになった。

 ドイツの支配地域になった西部では、ポーランド人40万人とユダヤ人60万人が追放された。特に知識層は強制収容所行きになり、ユダヤ人は隔離施設に集められた。教育施設や文化施設は廃止され、読み書きと労働のために必要な技術のみ学ぶことになった。

 ヒトラーはポーランド人を下等人種と見なしていたため、ドイツ市民になることは許さなかった。すべてのポーランド人は労働を義務づけられ、ドイツ人の奴隷となった。

 一方、ソ連占領地域のポーランド人にはソ連の市民権が与えられた。ソ連はドイツと異なり人種差別意識を持っていなかったため、ポーランド語を禁止することもなかった。

 ただしソヴィエト連邦共通のこととして、非共産主義者を弾圧した。将校、警察官、官吏、地主は「反革命分子」として強制連行され、特にポーランド人将校は銃殺刑になった。強制連行を免れた市民は自由な移動を禁じられ、労働と徴兵の義務を負うことになった。

連合軍に加わるポーランド人

 一方、ポーランドから脱出に成功した亡命政府や兵士は、イギリスで熱狂的な歓迎を受けた。特にパイロットと整備士は貴重な戦力として重宝された。五十名のポーランド人パイロットはイギリス空軍に加わり、ドイツ軍と戦うことになった。彼らの敵機撃墜数は、全体の12パーセントを占めた。

 ポーランド兵はイタリア戦線でも活躍した。特にモンテ・カッシーノの戦いで3,000人の負傷者と千人の戦死者を出しながら重要拠点を占領したことは、連合軍の中でもポーランド人の勇猛さを象徴する出来事になった。

 1944年8月1日、ソ連軍がポーランドに迫っていたとき、ワルシャワでレジスタンスが蜂起した。蜂起軍は一時的に市街地の大部分を支配するに至った。しかしロンドン亡命例府手動の蜂起をスターリンは快く思っていなかった。

 ソ連軍はワルシャワを目前にして進軍を停止し、イギリスやアメリカによる航空支援も拒否した。こうして追い詰められていった蜂起軍は6三日間の抵抗の末、ドイツ軍に降伏した。この戦いでワルシャワの市民18万人が犠牲になり、ドイツ軍も2万人近くが死亡または行方不明になった。

 ワルシャワは徹底的な報復を受けた。建物はすべて破壊され、蜂起に参加した者を処刑しようとした。しかしイギリスがラジオを通してレジスタンスを処刑した者は戦犯と見なすと警告したため、処刑は取りやめられ収容所行きになった。

 ソ連軍がワルシャワに入城したのは1945年1月17日のことだった。既にワルシャワは廃墟になっていた。

 首都の移転も検討されたものの、ポーランド復活の象徴のためにワルシャワの再建が決まった。50万人以上の市民がワルシャワに戻り、歴史地区は18世紀の風景画をもとに正確に復元された。