第二次世界大戦とバルト三国
バルト海に面するリトアニア、ラトビア、エストニアの三国を、バルト三国と呼ぶ。バルト三国はいずれもロシア帝国に支配されていたが、第一次世界大戦中のロシア革命で独立を果たした。
バルト三国はドイツとソ連の間に位置するため、常に両国の脅威にさらされることになった。そこでバルト三国は結束して独立を維持しようとした。三国はソ連と不可侵条約を結んだ。
大国の狭間で
イギリスとソ連はバルト三国を自分たちの陣営に引き入れようとしたが、三国はドイツとの関係も維持していった。ドイツに最も近いリトアニアがドイツと不可侵条約を結び、エストニアとラトビアも続いた。ドイツから提案のあった対ポーランド軍事同盟は拒否した。
ドイツとソ連は秘密協定を結んでいた。それはドイツがポーランドの一部を得る代わりに、バルト三国をソ連が得るというものだった。そのため、バルト三国に住んでいたドイツ人は本国へと引き揚げていった。
1939年11月にソ連がフィンランドに侵攻すると、バルト三国はイギリスやフランスがフィンランドを助けるかに注目した。フィンランドの次の標的がバルト三国であることは明らかだった。しかし国際社会はフィンランドを助けることはなかった。
1940年6月、バルト三国は全土をソ連に占領された。イギリスなど大国の支援に期待できないバルト三国にとって、ソ連に抵抗するすべは何もなかった。ラトビアとエストニアの大統領はソ連に連行されていった。リトアニアの大統領だけは脱出に成功し、アメリカに亡命した。
バルト三国はソ連の構成国に組み入れられ、共産主義国になった。企業は国有化され、土地は農民に分配された。聖職者は逮捕され、数万人がシベリア送りになった。
ドイツの侵攻
ドイツ軍が侵攻してくると、バルト三国の市民はドイツ軍を「解放軍」と見なして歓迎した。リトアニアではソ連と戦うために3万人が志願した。エストニア、ラトビアもドイツ軍に加わり、ソ連軍と戦った。
しかしバルト三国の独立は認められなかった。独立指導者は逮捕され、ユダヤ人は強制収容所へ送られた。ユダヤ人の一部はソ連や、日本を経由してアメリカへ逃れた。
特にリトアニア日本領事館の杉原千畝(すぎはらちうね)が大量のビザを発行して多くのユダヤ人を救った。
1944年にバルト三国はソ連軍に再占領された。ドイツ軍に加わっていたエストニア兵は中立国スウェーデンに逃げ込んだが、スウェーデンはソ連に兵士を引き渡した。
バルト三国の市民は今度はソ連軍に加えられ、ドイツ軍と戦うことになった。
こうして両国の間で戦場になったバルト三国は、第二次世界大戦中に人口の5分の1を失い、結局はソ連の構成国にされてしまった。バルト三国が再び独立できるのは、ソ連が崩壊した
1944年、反撃に転じたソ連軍はバルト三国を再占領した。
このとき、ドイツ軍に徴用されていたエストニア兵士は、中立国スウェーデンに逃げ込んだ。しかしスウェーデンはソ連の圧力に屈し、兵士たちを引き渡してしまった。
バルト三国の多くの市民はソ連軍に加えられ、ドイツと戦うことになった。
こうしてソ連、ドイツ、ソ連に占領されたバルト三国は、第二次世界大戦で人口の5分の1を失った。さらにバルト三国はソ連の構成国に組み入れられ、支配されることになった。三国が再び独立を果たすのは、1991年のことである。