第二次世界大戦の解説

第二次世界大戦とデンマーク

デンマーク

 ドイツと国境を接するデンマークは第一次世界大戦では中立を維持できたが、ドイツとの関係には細心の注意を払っていた。

 ナチスが台頭すると、デンマーク政府は国内の新聞や雑誌がドイツを批判しないように目を光らせた。ドイツで迫害された共産主義者やユダヤ人はデンマークに逃げ込もうとしたが、デンマークは外国法を厳格化して難民を閉め出した。

ドイツと良好な関係を保つデンマーク

 第二次世界大戦が始まってからも、デンマークはドイツと良好な関係を保っていた。ドイツはデンマークから多くの農産物を輸入していた。

 しかしドイツは資源が豊富なノルウェーが連合国の手に落ちることを恐れていた。ノルウェーに攻め込むには、間にあるデンマークを通過しなければならなかった。ドイツはデンマークに軍の進駐を要求し、デンマーク政府はこれを了承した。

 こうしてデンマークはドイツ軍に占領されることになったが、両国の関係は良好だった。デンマーク軍の存続は許されていたし、ドイツ軍は基地の外には出なかったため、市民の生活にも大きな変化はなかった。

 しかし、戦争が進むにつれて市民の生活は厳しくなっていった。食料品と燃料が値上がりし、日用品は配給制になった。

 ドイツはデンマークに戦争への参加を求めるようになった。そこでデンマーク政府は、デンマーク軍の将校にドイツ軍に加わる許可を与えた。一万人以上のデンマーク人がドイツの武装親衛隊に加わった。さらにドイツ、イタリア、日本の防共協定にも加わった。

 デンマーク政府はドイツに従い、国内の共産主義者やレジスタンスを取り締まり、憲法違反を承知で共産党を禁じた。国民の多くも、政府の判断をやむなしと考えていた。

八月暴動

 状況が大きく変わったのは、スターリングラードでのドイツ軍敗北だった。

 生活と労働環境は悪化の一途をたどり、国民は不満を募らせていった。イギリスの支援を受けてレジスタンス活動が活発になり、ついに1943年8月には大規模なストライキが起きた。

 ドイツはデンマーク政府に対して、ストライキの禁止、サボタージュを行ったものを死刑にすること、ドイツ軍のメディア検閲を要求した。政府はこれに応じず、デンマーク軍は解散された。

 ドイツはデンマーク国内に秘密警察を送り込んだが、官僚機構はそのまま委任した。

レジスタンスの戦い

 デンマークの市民はドイツの敗北を確信するようになり、レジスタンス運動は激しさを増した。スウェーデンやイギリスから武器と爆弾を入手し、戦いに参加した。

 1943年10月、ナチスはデンマーク国内のユダヤ人7000人を捕らえようとした。しかし事前に計画を察知した多くのデンマーク市民は危険を冒してユダヤ人を隠し、スウェーデンに逃がした。逮捕されたユダヤ人は260人だった。

 ドイツは報復としてデンマークの有名な企業や施設を爆破し、逮捕したレジスタンスを処刑した。また、デンマーク警察がレジスタンスに加わることを恐れて警察官2000人を逮捕し、強制収容所へ送った。

 しかし抵抗運動はさらに激しくなり、ドイツ兵の乗った列車が脱線させられ、ドイツに物資を送っていた工場が爆破された。国内ではドイツ軍とレジスタンスの銃撃戦が発生した。

 ドイツが降伏するとレジスタンスが臨時政府を樹立した。政府はドイツ軍に協力した者を処罰する法律を定め、これまで廃止されていた死刑制度を復活させた。レジスタンスは国内で4万人のドイツ軍協力者を逮捕し、そのうち46人に死刑が執行された。