近衛文麿と松岡洋右 大衆に人気の二人が最悪の結末を招いた
アメリカとイギリスによる世界秩序から離脱し、大東亜共栄圏という新たな秩序を作り出す。国際連盟を脱退し、日独伊三国同盟を締結、さらにソ連と日ソ中立条約を締結して日本は世界に対抗する姿勢を打ち出した。
この一連の動きを主導したのが近衛文麿(このえふみまろ)と松岡洋右(まつおかようすけ)だった。日本を戦争への道を進ませ、破滅に追い込んだ二人のコンビは、国民から絶大な支持を得ていた。
大人気の二人
近衛文麿は日中戦争の開始、国際連盟脱退、日独伊三国同盟締結という重大な局面で総理大臣を務めた。そして、国連脱退と三国同盟締結を推し進めたのは第二次近衛内閣で外務大臣を務めた松岡洋右だった。
近衛文麿は日本一の家柄、近衛家の出身である。近衛家は五摂家(近衛・九条・鷹司・二条・一条)の筆頭で、大化の改新で有名な中臣鎌足を祖先に持つ。まさに名門の中の名門だった。近衛家はマスメディアで報道されることも多く、国民の注目の的だった。
近衛は西洋のスポーツ・ゴルフというモダンな趣味を持ち、社会主義という先進的な思想を持っていた。アメリカ的な生活をしつつも、日本の古美術や相撲も好み、国民からとても好かれていた。
マスメディアが好意的だったからか、近衛は民意をとても大切にした。彼は世襲の貴族院議員だったが、選挙で選ばれる衆議院を尊重していた。
一方の松岡は外務省出身で、とても頭が良く雄弁な政治家だった。彼もまた、国民の支持が自分に最も大切なことであると考えていた。
陸軍・海軍を抑えるために過激な意見を出す
当時、日本では陸軍や海軍といった軍人が強い発言力を持っていた。そのせいで代々の内閣は政治をうまく進められず、短命に終わっていた。
そこで近衛内閣は軍を抑えることに力を注ぐのだが、その方法が奇妙だった。なんと、軍よりも過激な意見を述べることで、主導権を政府のものにしようとする作戦をとったのである。
第二次近衛内閣で近衛は、松岡を外務大臣に任命した。近衛と松岡はどちらも人気の政治家だったが、性格はだいぶ異なっていた。近衛は聞き上手で、松岡はよくしゃべった。
松岡はフランス領インドシナ(ベトナム)に進駐し、イギリスの拠点シンガポールを攻略すべしと主張した。特にシンガポールはイギリスの東洋最大の拠点で、難攻不落と言われていた。あまりの発言に、陸軍は及び腰になり、海軍に至っては反対した。
このように松岡は陸海軍を抑えたが、そんな作戦は長くは続かなかった。松岡がしつこく主張するので、ついにキレた陸海軍が本当にフランス領インドシナ進駐と、シンガポール攻略を決意してしまったのである。
まずいと思ったのか、松岡は意見を変えた。そんなことをすれば国際社会の信頼を失うと言い出したのである。
ちょうどこの頃、ドイツがソ連侵攻を開始した。そこで松岡は、日本もソ連を攻撃するべきであると主張し始めた。そして、シンガポールを攻略する「南進」は中止して、ソ連を攻撃する「北進」を行うべきだと言い出した。
松岡がいったい何をしたかったのかよくわからないが、実現不可能なことを言い続けて、陸海軍の身動きを封じようとしていたのかもしれない。
しかし意見を次々と変える松岡に対して、耳を貸す者はいなくなった。松岡は独断専行を続けたため、閣内で孤立することになった。陸軍との関係も悪化し、しまいには昭和天皇までもが松岡の解任を求めたのである。
こうして松岡は失脚した。その後近衛は戦争回避に奔走したが失敗し、首相の座を陸軍の東条英機に譲ることになった。
戦争と結末
真珠湾攻撃の知らせを聞いた松岡は、かつて自分が日独伊三国同盟を締結したことを深く後悔した。「一生の不覚だった。死んでも死にきれない。お詫びのしようもない」と嘆いたという。松岡は戦争が終わるとA級戦犯の容疑者として逮捕され、公判中に病死した。
一方の近衛は開戦直後、敗北主義者としてマスメディアの非難に晒された。
やがて戦局が不利になると、近衛は東条内閣打倒のために終戦工作に乗り出した。1945年2月には昭和天皇に「近衛上奏文」を奏上して早期講和を説いた。さらにソ連との和平交渉の特使に任命されたが失敗した。
近衛もA級戦犯として逮捕され、服毒自殺した。遺書には「政治上多くの過ちを犯してきた」と書き残されていた。
今日、近衛文麿は日本史上最悪の総理大臣として名前が挙がることが多い。