第二次世界大戦の解説

強国プロイセンと日本の関係 優れた鉄道輸送システムがドイツ帝国を築き上げた

強国プロイセンと日本の関係

 ドイツが統一されたのは、1871年のことである。日本の明治維新が1868年だから、ドイツ統一は比較的新しい出来事だった。

 統一前のドイツは、いくつもの国が乱立する状態だった。その中で強い立場にあったのがプロイセン王国とオーストリア帝国である。

プロイセン=オーストリア戦争

 ドイツでは民族主義が台頭し、統一国家を作り上げようという気運が高まっていた。

 プロイセン王国はドイツ北部を支配する国で、首都はベルリンにあった。当時の宰相はビスマルクで、参謀総長はモルトケだった。モルトケは後に「近代ドイツ陸軍の父」と呼ばれる。

 モルトケ参謀総長は、要塞を作るよりも鉄道を作った方が国を守るために役立つと主張した。国内に鉄道を張り巡らせれば、すぐに兵を国境まで送ることができる。

 鉄道ができるまで、軍の移動は徒歩か馬だった。徒歩では到着まで時間がかかるし、戦場に到着しても兵士は疲れ切った状態である。馬を使えばもう少しマシになるものの、馬を用意するのも大変だし、馬の食料を運ぶのも大変だった。

 また、プロイセンは世界に先駆けて国民皆兵制度を導入した。誰もが兵士になって戦うことができた。戦時には各地で徴兵を行い、鉄道で速やかに兵員を補充することができた。

 この優れた動員システムは以前の軍隊とは明らかに異なるもので、まさに「軍事革命」といえる画期的な転換点だった。国内に鉄道を建設したプロイセンは、オーストリアとの戦いで大軍を投入して勝利を収めることに成功した。

普仏戦争と日本陸軍

 こうしてドイツ統一の主導権を握ったプロイセンだったが、宰相ビスマルクはさらなる仕上げのため、ある計画を企てた。

 長らく統一されることのなかったドイツを統一するには、ドイツ民族の一体感を作り上げることが重要である。そのためには「共通の敵」が必要だった。

 ビスマルクは巧みにフランスを誘導し、ドイツ諸国家に宣戦布告するよう仕向けた。まんまと誘いに乗ったフランスが宣戦布告してくると、プロイセン軍を中心としたドイツ連合軍はセダン要塞でナポレオン三世を降伏させた。

 勢いに乗ったドイツ連合軍はフランスの首都パリに迫り、街を包囲した。

 この状態でパリ近郊のヴェルサイユ宮殿を占領し、そこでドイツ帝国建国の式典を挙行したのだった。ドイツ皇帝には、もちろんプロイセン王が即位した。

 ドイツの勝利に驚いたのは日本だった。日本は近代軍を創設するにあたり、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式を採用することにしていた。当時、フランス陸軍、イギリス海軍が世界最強と信じられていた。

 既に日本陸軍はフランスの将校を読んで軍事を学んでいたが、ドイツ式に乗り換えることにした。モルトケの弟子であるメッケル少佐を呼び寄せて軍事を学び、多くの日本軍将校がドイツに留学するようになった。

 このような経緯から、日本陸軍の将校はドイツに親近感を抱いている者が多かった。