第二次世界大戦の解説

ガリポリ上陸戦 作戦は大失敗に終わり、チャーチル海軍大臣が失脚

ガリポリ上陸戦

 第二次世界大戦で首相としてイギリスを勝利に導いたウィンストン・チャーチルは、第一次世界大戦の時には海軍大臣だった。

 第一次世界大戦でイギリスはドイツ帝国、オーストリア帝国、そしてオスマン帝国と戦った。このときドイツとオーストリアは同盟を結んで「中央同盟」を形成しており、イギリスはフランス、ロシアとともに「三国協商」を結んでいた。

 オスマン帝国はどちらの陣営にも属していなかった。近代化に遅れていてロシアの脅威があったオスマン帝国は、陸軍はドイツを参考に、海軍はイギリスを参考に近代化を推し進めていた。そしてイギリスに最新鋭戦艦を二隻発注していた。

 しかし海軍大臣のチャーチルは、オスマン帝国がドイツ側につくことを懸念して戦艦二隻の引き渡しを取りやめ、同乗していたオスマン兵を追放してしまった。

 これを見たドイツは、オスマン帝国に戦艦二隻をイギリスの代わりにプレゼントした。

オスマン帝国の参戦

 第一次世界大戦が勃発した後もオスマン帝国はしばらく中立を保っていたが、タンネンベルクの戦いでドイツ軍が大勝利を収めたと聞いて、これまでにロシアに奪われた領土を取り返すチャンスだと考えた。

 オスマン帝国は中央同盟側に立って参戦し、10万の軍勢でロシアに、続いてスエズ運河を攻略するためにエジプトに進軍を開始した。

 しかしロシア軍とは満足に戦うこともなく多数の兵士が凍死してしまった。スエズ運河に向かった部隊もナイル川を渡ることができなかった。オスマン帝国の弱さを目の当たりにしたイギリスは、フランスと共同でオスマン帝国を攻撃することにした。

 英仏連合軍は、オスマン帝国の首都イスタンブール近くのガリポリ半島に上陸した。

 ガリポリの海岸は砂浜があり、その先には高い崖があるという地形だった。連合軍は砂浜に拠点を築き、オスマン帝国軍は崖の上に塹壕を掘った。当初のもくろみは外れ、簡単にオスマン軍を破ることはできなくなった。

 この有様に、イギリス国内では立案者のチャーチル海軍大臣に非難が集中した。チャーチルは素人海軍大臣と揶揄され、ついに大臣から外されてしまった。

第二次世界大戦の海軍大臣

 24年後の1939年9月、チェンバレン内閣でチャーチルは海軍大臣に任命された。

 チャーチルは北欧に攻め込んだドイツ軍に対抗するため、英仏連合軍をノルウェーに上陸させた。しかし連合軍はドイツ軍に勝てず、撤退を余儀なくされた。

 24年前とは異なり、チャーチルへの批判は起こらなかった。むしろ対独強硬派のチャーチルは、世論の強い支持により首相へと就任することになるのだった。