第二次世界大戦の解説

原爆投下 新型爆弾の実験に利用された広島と長崎

原爆投下

 アメリカが原子爆弾を完成させたのは、1945年7月16日のことだった。既にナチス・ドイツは降伏していたので、投下先は日本以外なかった。

 完成前の5月12日にはローズベルトとチャーチルが協議して、京都、広島、横浜、小倉を候補地とすることになった。このうち横浜は皇居に近すぎるため候補から外され、代わりに新潟が入れられた。

 京都は日本のかつての首都であり、工業力があり、人口も多く、地形が原子爆弾の威力を試すのに適していた。広島は重要な軍事拠点であり、重工業施設が市内に集まっていた。小倉は日本最大の弾薬工場があった。新潟にはアルミニウム工場や鉄工所があった。

 次に京都が候補地から外された。京都は日本人にとって重要な意味を持つ都市であるとして、スチムソン陸軍長官が反対したからだった。代わりに候補地になったのが長崎だった。

広島への原爆投下

 こうして原爆投下の候補地は広島、小倉、新潟、長崎の四都市になった。別にどの都市でもよかったので、優先順位はなかった。天気が良いことが条件だった。

 1945年6月6日の早朝にB-29が二機、テニアン島の飛行場を離陸した。一機は原子爆弾を搭載したエノラ・ゲイ、もう一機は観測機だった。目的地は広島、小倉、新潟、長崎のいずれかで、この時点では決まっていなかった。

 先に偵察飛行していた別のB-29から、広島は投下に差し支えないと連絡があった。エノラ・ゲイは8時15分に原子爆弾リトル・ボーイを投下した。

 爆心地周辺の木造家屋はすべて吹き飛ばされ、鉄筋コンクリートの建物はすべての窓が割れた。すべてのものが高温に包まれたので、そこらじゅうで火災が発生した。広島城の天守閣も吹き飛んだ。

 犠牲者は即死に近かった人数が四万六千人、一か月後までの死者は10万人を超えた。

長崎への原爆投下

 次に原子爆弾が投下されたのは長崎だった。1945年8月9日にB-29ボックス・カーが原子爆弾ファットマンを投下した。最初に投下する予定だったのは、長崎ではなく小倉だった。しかし小倉は雲が多かったため、目標は長崎に変更された。

 なお、広島に投下されたリトル・ボーイはウランを原料とした爆弾、長崎に投下されたファットマンはプルトニウムを原料とした爆弾だった。違う種類の爆弾を投下したのは、もちろん実験のためだった。

 長崎の犠牲者は即死に近かった人数が2万人以上とされる。広島に投下されたウラン爆弾よりも、長崎に投下されたプルトニウム爆弾のほうが威力が大きいとされるが、長崎の地形により広島よりも犠牲者は少なかった。