第二次世界大戦の解説

ドイツのポーランド侵攻とまやかし戦争 各国の思惑と見捨てられたポーランド

ドイツのポーランド侵攻

 第二次世界大戦の始まりは1939年9月1日とされている。ドイツがポーランドに侵攻を開始した日である。ドイツからポーランドへの宣戦布告はなかった。

ポーランド侵攻と宣戦布告

 ドイツのポーランド侵攻は予想されていたことで、あらかじめイギリスはポーランドと同盟を結び、有事の際には支援することを宣言していた。特にドイツがミュンヘン協定を破ってからは、イギリスとフランスは強硬な姿勢をとるようになった。

 ポーランドに侵攻すればイギリス・フランスと戦争になる可能性は高かったわけだが、ヒトラーは強行した。

 イギリス・フランス両政府はドイツの行動にどう対処するか協議し、9月3日にイギリスがドイツに宣戦布告、フランスもこれに続いた。

 両国はドイツに対して経済封鎖を行い、ヒトラーを非難するビラをまいた。特にフランスはドイツと国境を接していたが、直接攻撃することはなかった。

 宣戦布告したのに戦闘が起こらないという不思議な状況は、イギリスでは「いかさま戦争」、フランスでは「奇妙な戦争」と呼ばれた。

 当時のイギリス・フランス両軍とドイツ軍の軍事力に大きな差はなかった。海軍力ではイギリスが圧倒していた。それでも両国は積極的に攻撃することはなく、孤立無援だったポーランド軍は一か月で壊滅した。

フランスのマジノ線

 フランスは第一次世界大戦の経験から、ドイツとの戦争は国境付近での塹壕戦になると見ていた。そこで国境に沿ってマジノ線と呼ばれる強固な要塞を構築していた。ドイツとの国境はマジノ線で防ぎ、ベルギー側には戦車部隊を配置することでドイツ軍の攻撃を防ぐという作戦だった。

  ベルギーとルクセンブルクの国境、アルデンヌには森林が広がっていた。この地域を大軍が通過することは難しいと考えていたため、フランス軍はあまり兵力を配置していなかった。

だが、後にドイツ軍が突破したのはアルデンヌの森だった。おかげでベルギー側にいたイギリス・フランスの戦車部隊は孤立、ダンケルクに追い詰められることになる。

ソ連とイタリアの動き

 ドイツの同盟国であるイタリアは、この時点で参戦する気はなかった。ムッソリーニ首相は軍備不足を理由に、事前に参戦を断っていた。

 一方のソ連は、ドイツと不可侵条約を締結していたが、ドイツの動きを黙って見ているわけではなかった。ドイツがポーランドに侵入するとソ連もポーランドに攻め込み、東部を占領した。また、バルト三国を併合し、フィンランドにも圧力を加えた。

 フィンランドはソ連の圧力に屈せず、戦争になった。イギリスとフランスはソ連を国際連盟から追放し、フィンランドをノルウェー経由で支援した。ノルウェー軍は頑強に抵抗し、ソ連軍はなかなか進軍することができなかった。この様子を見て、ヒトラーはソ連が弱いと判断し、北欧を次の攻略目標に定めたとされる。