ヒトラーの経済政策 不況を脱したナチスの失業政策
第一次世界大戦終結後、敗戦国ドイツには莫大な賠償金が課せられた。この賠償金はアメリカがドイツに貸し付けるという形で進められた。アメリカの資本はドイツに投資を行い、復興が進められていった。
1929年に世界大恐慌が発生すると、ドイツへの投資資金は引き上げられた。アメリカの金融業者はドイツへの貸し付けを中止し、債務の返済を要求した。
この金融危機に対してドイツ首相ブリューニングは、支出の削減と増税によって乗り切ろうとした。失業保険の支給を打ち切り、公務員の給料を引き下げた。ブリューニングの緊縮政策は、ドイツ経済をさらに悪化させた。
1931年、ドイツ第二位のダナート銀行が破綻した。ドイツ国内の銀行は経営危機に陥り、多くの企業が倒産した。失業者は650万人に上った。
ドイツの経済悪化によって、過激な政策を掲げるヒトラーへの支持が集まっていった。特に不況に苦しむ中産階級以下では、ヒトラーへの支持は圧倒的だった。
ヒトラーの失業対策
1933年に政権の座についたヒトラーは、失業対策を第一の目標とした。
「我々の義務は、国民に仕事を与え、失業の淵へ再び沈めさせないことだ。上流階級が多量のバターを得ることよりも、大衆に安価なパスタを供給すること、それよりも大衆を失業させないこと。これこそが重要なのだ」
「我々のなすべきことは、失業対策、失業対策、そして失業対策だ」
ナチスは選挙中、国民に仕事とパンを与えることを約束していた。
ヒトラーは国債を大量に発行した。当時の財政政策では、赤字財政は異例のことだった。さらにヒトラーは金本位制からの離脱を決めた。金の裏付けのない通貨制度など、当時は考えられないことだった。
ヒトラーは18歳から25歳の男子に兵役義務を課した。失業していた国民にとって、兵役は保証された仕事になった。
ナチスは大規模な公共事業を行った。全国にアウトバーン(高速道路)の建設を始めた。こうして労働者は衣服を買うことができるようになった。
同時にヒトラーは、第一次世界大戦における賠償金の支払いを一方的に拒否する。
大企業・富裕層への増税
ヒトラーは、公共事業の取り分が労働者に分配されるよう工夫した。建設業者にナチス党員を送り込み、建設業者が利益を労働者に分配しているか監視した。
また、大企業と富裕層に増税を行った。株式の配当は最大6パーセントに制限し、残りの利益は強制的に国の購入に充てさせた。また、資産家や大企業によるマネー・ゲームは堅く取り締まった。
さらに、メイドを雇うことで所得税を減税し、家の改築を行った者にも減税を行った。こうして富裕層の支出を増やし、労働者に富が分配されるようにしたのである。また、ヒトラーは労働者や低所得者層に大減税を行った。
アウトバーンの起工式は大々的に宣伝された。ドイツ経済の復興を国民や国際社会に印象づけた。こうしてドイツの消費は回復し、失業者は100万人程度にまで減少、国民総生産は世界恐慌以前の1928年と比較して15パーセントも増加した。
ヒトラーのワーク・シェアリング
ナチスは休日労働の廃止、有給休暇の制定、8時間労働を企業に求め、推進した。
当時のドイツ企業は賃金の安い女性を雇うことが多かったが、ナチスは男性を雇うように働きかけた。職のない若者は奉仕活動に参加させ、最低限の生活を保障した。
こうしてドイツは世界でもいち早く不況を脱した。世界恐慌と言えばアメリカのニュー・ディール政策が有名だが、ナチスの経済政策はニュー・ディール政策よりも早く成功を収めていたのである。
ヒトラーの経済政策は、イギリスの経済学者ケインズの理論に酷似していた。ドイツ国民がヒトラーを熱狂的に支持したのは、こうした優れた経済政策が理由のひとつだった。
ヒトラーはヨーロッパ中にアウトバーンを建設し、ベルリンに世界銀行の創設を計画していた。