第二次世界大戦の解説

大本営発表

 第二次世界大戦中、国民に対し都合の良い嘘を並べた当局の発表として悪名高いのが大本営発表である。それでは実際にどのような発表があったのか、見ていこう。

大本営の仕組み

 大本営は日本軍の最高司令部で、戦時に設置される。

 第二次世界大戦では1937年の日中戦争中に設置され、終戦まで存在した。大本営は陸軍部と海軍部に分かれており、前者は陸軍参謀本部、後者は海軍軍令部が支配していた。敗戦の3か月前に両者は統合された。

 大本営には首相は参加していなかった。天皇は臨席したが、あくまで形式的なものだった。つまり、大本営は陸軍と海軍それぞれが勝手に作った組織に過ぎなかった。

ラジオ放送と行進曲

 当時はラジオが急速に普及したため、国民はラジオで大本営の発表を聞くのが一般的だった。大本営発表の際には必ず、軍歌が流された。

 陸軍の発表のときは「陸軍分列行進曲」、海軍の発表のときは「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」、合同発表のときは「敵は幾万」が流れた。軍艦マーチは戦後にパチンコ店で盛んに使われたため、今もメロディを知っている人は多い。

正確な真珠湾攻撃の発表

 まずは1941年12月8日、真珠湾攻撃の大本営発表を見てみよう。真珠湾を攻撃したのは海軍なので、大本営海軍部の発表。

帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり。ハワイ空襲において現在までに判明せる戦果左の如し。戦艦2隻轟沈、戦艦4隻大破、大型巡洋艦約4隻大破、以上確実。他に敵飛行機多数を撃墜撃破せり、我が飛行機の損害は軽微なり。

 大本営発表では戦艦2隻撃沈となっているが、アメリカ側は戦艦3隻沈没と発表している。日本側は13日になってから、戦艦3隻轟沈と上方修正した。意外に思うかもしれないが、このときの大本営発表は正確さを重視していて、最初は戦果を少なめに発表していた。事実、次のように述べられている。

我が海軍においては十分慎重を期し、各方面の報告を待ってその実証を確かめたる上、今回の発表を見るに至るものなり。八日撃沈せるも確実ならずと発表したる敵航空母艦は沈没を免れ、蟄伏中なること判明せり。

勇ましい陸軍の発表

 12月19日、陸軍部より香港攻撃の発表がある。

帝国陸軍部隊は海軍部隊の緊密なる共同の下に敵の頑強なる抵抗を粉砕し、昨夜半敵の猛射を冒して香港島要塞の上陸作戦に成功し、目下着々戦果拡張中なり。将兵の士気極めて旺盛、意気天を衝く。

 海軍の発表に比べて、大した戦果ではないにも関わらず、とても勇ましい。「意気天を衝く」ときた。次にパレンバン降下作戦の発表。

強力なる帝国陸軍落下傘部隊は、蘭印最大の油田地たるパレンバンに対する奇襲降下に成功し、敵を撃破して飛行場その他の要地を占領確保するとともに更に戦果を拡張中なり。

 自分で「強力なる帝国陸軍落下傘部隊」とか言っている。笑ってはならない。これらを見てみると、陸軍のほうが自画自賛の傾向にある。

 なお、「大本営海軍部」と「大本営陸軍部」でそれぞれが発表していると仲が悪いように思われるため、この頃には「大本営」で統一されることになった。ただし、実際にはそれぞれが別々に発表している。

真珠湾攻撃における特殊潜航艇について

 1942年3月、真珠湾攻撃における特殊潜航艇についての大本営発表があった。海軍屈指の雄弁家と言われた平手英夫が読み上げた。

天佑神助をを確信せる特別攻撃隊は壮途につき、白昼強襲、或いは夜襲を決行、史上空前の壮挙を敢行、任務を完遂せるのち艇と運命をともにせり。
アリゾナ型戦艦の轟沈は遠く港外に在りし友軍部隊よりも明瞭に認められ、真珠湾内に大爆発起こり、火焔天に冲し灼熱せる鉄片は空中高く飛散、しゆゆにして火焔消滅、これと同時に敵は航空部隊の攻撃と誤認せるものか、熾烈なる対空射撃を開始せるを確認せり。
全員生死を超越して攻撃効果に専念し、帰還の如きは敢てその念頭に無かりしによるものと断ずるの外なし。かくの如く古今に絶する殉忠無比の攻撃精神は、実に帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮せるものにして、今次大戦史劈頭の一大偉勲というべし。

 このときは帝国のために命を捨てた「美談」なので、音楽は軍艦行進曲ではなく「海ゆかば」が使用された。戦死者9名は「九軍神」となり、この感動的な物語は映画化された。

 ちなみに特殊潜航艇は2人乗りで、作戦には5隻が参加した。そう、1人足りない。

 実は1名はアメリカ軍の捕虜になっていたのだが、日本軍にとってアメリカ軍の捕虜になった者がいたということは大変な不名誉なので、最初からいなかったことにされている。海軍も戦果を正確に発表していたのは最初だけだった。

珊瑚海海戦

 珊瑚海海戦の結果は次のように発表された。

帝国海軍部隊は米英連合の敵有力部隊を発見捕捉し、これに攻撃を加え米戦艦カリフォルニア型1隻を轟沈、英巡洋艦キャンベラ型1隻を大破、英戦艦ウォースパイト型1隻に大損害を与え、さらに米空母サラトガ型1隻及びヨークタウン型1隻を撃沈し攻撃継続中なり。

 さらに平手英夫は「米英が三流海軍国に下落する日も近い」とまで言った。新聞は「真珠湾攻撃依頼の大戦果」と書きたて、国内は熱狂した。

 実際には、日本海軍は珊瑚海海戦で航空母艦レキシントン1隻を撃沈している。

ミッドウェーの大戦果

 1942年6月10日、ミッドウェー海戦の3日後に大本営発表があった。

帝国海軍部隊はアリューシャン列島の敵拠点ダッチハーバー並びに同列島一帯を急襲し、反復これを攻撃せり。一方、敵根拠地ミッドウェーに対し猛烈なる強襲を敢行すると共に、増援中の米国艦隊を捕捉猛攻を加え、敵海上及び航空兵力並びに重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり。判明せる戦果左の如し。敵航空母艦エンタープライズ型1隻及びホーネット型1隻撃沈、我が方損害航空母艦1隻喪失、同1隻大破、巡洋艦1隻大破。

 実際にはミッドウェー海戦で日本軍はアメリカの航空母艦ヨークタウンを撃沈したが、引き換えに航空母艦赤城、加賀、蒼龍、飛龍を失う大敗北を喫していた。

 ミッドウェー海戦以降、大本営発表は減っていくことになる。

海戦と大本営発表

 第一次ソロモン海戦では、大本営は戦艦1隻撃沈と発表した。実際には戦艦は撃沈していない。

 第二次ソロモン海戦は発表されなかった。日本軍が負けたからである。

 南太平洋海戦では、航空母艦4隻を撃沈したと発表した。実際には1隻撃沈、1隻大破だった。

 第三次ソロモン海戦では戦艦2隻を撃沈し、日本側も戦艦を1隻失ったと発表した。日本海軍が戦艦を失ったのは初めてのことであり、この発表は国民に衝撃を与えた。なお、実際にはアメリカ海軍の戦艦は撃沈しておらず、日本側は戦艦2隻を失っていた。

 もはや大本営発表は嘘ばかりになっていた。昭和天皇の弟である高松宮親王は、次のように日記に書き残している。

大本営発表の説明は実に『でたらめ』で、けしからぬ話なり。今度のようなの(ソロモン海戦)は実に甚だしく内外ともに日本の発表の信じられぬことを裏書することになる。まるで『ねつぞう』記事なり。

 基本的に政治に口を出すことのなかった昭和天皇も、思わずこんな皮肉を言ったとされる。

サラトガ(航空母艦の名前)が沈んだのは、今度で確か4回目だったと思うが。

「転進」と「玉砕」

 大本営発表で「全滅」が「玉砕」、「撤退」は「転進」と言い換えられたことは有名なエピソードだ。「転進」の文字はガダルカナル島の戦いに登場する。1943年2月9日の大本営発表。

ニューギニア島のブナ付近に挺進せる部隊は、寡兵よく敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしが、その任務を終了せしにより、陣地を徹し、他に転進せしめられたり。同じくソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘、よく敵戦力を撃砕しつつありしが、その目的を達成せるにより、同島を撤し、他に転進せしめられたり。

 続いてアッツ島守備隊全滅の報。

アッツ島守備部隊は極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し、皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。その後通信途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、これに先立ちことごとく自決せり。

 1943年6月8日、国民に親しまれていた戦艦陸奥が爆発事故を起こして爆沈した。日本国内では戦艦大和と武蔵の存在は秘密にされていたため、国民にとって「陸奥」と「長門」が最強の戦艦として知られていた。

 陸奥の爆沈は、発表されることはなかった。

トラック諸島喪失、被害甚大。

 ついに日本海軍の南方の重要拠点、トラック諸島も攻撃を受けるようになる。海軍報道部はトラック諸島について「被害甚大」として原案を作成した。しかし原案は次のように変更されている。

トラック諸島に来襲せる敵機動部隊は、帝国陸海軍部隊の奮戦によりこれを撃退せり。本戦闘において敵巡洋艦2隻撃沈、航空母艦1隻撃破、飛行機54機以上を撃墜せしも、我が方も巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船13隻、飛行機120機を失いたる他、地上施設に若干の被害あり。

 この頃には「玉砕」という言葉は使われなくなり、「全員壮烈なる戦死を遂げた」と言われるようになった。また、「転進」という言葉も消え、そのまま「撤退」や「撤収」と表現するようになった。さすがの大本営もおかしいと思ったのかもしれない。

 しかし国民の間で「玉砕」は広く浸透し、皮肉として使用された。

最後の大戦果と終戦

 大本営発表において最大の戦果を上げたのは、台湾沖航空戦だった。

 発表によれば、日本軍は航空機312機を失ったものの、アメリカ軍の航空母艦11隻と戦艦2隻を撃沈、さらに航空母艦8隻と戦艦2隻を大破させたのである。

 実際にはアメリカ軍の航空母艦も戦艦も1隻すら沈んでいなかった。

 1945年3月、硫黄島陥落の報。

硫黄島の我が部隊は、敵上陸以来約1か月にわたり敢闘を継続し、壮絶なる奮戦を続行中なりしが、戦局遂に最後の関頭に直面し、『17日夜半を期し最高指揮官を陣頭に皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行す』との打電あり。爾後通信断ゆ。

そして長崎に原爆投下があった8月9日。

8月9日午前11時頃敵大型2機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込。

 最後の大本営発表があったのは無条件降伏の前日、8月14日である。その内容は、アメリカ軍の航空母艦と巡洋艦を大破させたというものだった。