第二次世界大戦の解説

沖縄戦

 1945年3月23日、アメリカ軍は沖縄へ上陸する。

日本軍の沖縄守備兵力

 日本軍はアメリカ軍に備えるため、沖縄守備隊として第32軍を配備していた。

 当初、第32軍は兵力10万人だったが、そのうちの1個師団が台湾防衛のために引き抜かれていた。この穴を埋めるために本土から増援が送られるはずだったが、アメリカ軍の潜水艦により輸送船が沈められることを恐れ、計画は中止された。

 第32軍は現地の住民や学生を徴集し、来たるべきアメリカ軍に備える。

慶良間列島上陸

 1945年3月23日、アメリカ軍は慶良間列島に上陸した。アメリカは慶良間列島の地形が大艦隊を停泊させるのに適していると判断していた。一方で日本軍は慶良間列島への上陸は予想しておらず、兵力もほとんど配置していなかった。

 慶良間列島はアメリカ海軍の拠点となった。

沖縄本島上陸

 アメリカ軍は沖縄本島への上陸に先立ち、2万8千発の艦砲射撃と3千機による爆撃を行った。日本軍は砲の位置を知られないよう、反撃せずに沈黙していた。

 4月1日、アメリカ軍は沖縄本島への上陸を開始する。戦艦10隻を含む177隻で艦砲射撃を2時間ほど続け、上陸地点の一切の障害物を吹き飛ばした。

 アメリカ軍はペリリュー島で日本軍の激しい抵抗に遭っていたから、今回も反撃を恐れていた。しかし、日本軍はほとんど反撃することはなく、アメリカ軍は無事に上陸することができた。嘉手納と読谷の飛行場もすんなりと占領した。

戦艦大和の出撃

 日本軍第32軍は持久戦をとることを予定していたのだが、台湾にあった上級司令部は、沖縄の飛行場があまりに簡単に奪われたことが不満だった。

 日本軍は海軍と連携して大規模な攻勢をかけることを決めた。戦艦大和を出撃させ、先に占領された飛行場の読谷または嘉手納の砂浜に乗り上げ、陸上砲台としてアメリカ軍を粉砕する計画である。

 4月5日に第32軍が攻撃を開始し、翌日には戦艦大和が軽巡洋艦1隻と駆逐艦8隻を率いて出撃した。作戦は明らかに無謀だった。戦艦大和は出撃の翌日にアメリカ軍航空機300機の空襲を受けて、沈没した。

 第32軍も損害が大きく、攻撃を中止する。

嘉数陣地の攻防戦

 宜野湾市の嘉数では、日本軍とアメリカ軍の攻防が続いていた。嘉数は日本軍司令部のある首里まで4キロメートルの重要拠点だった。日本軍はあらかじめ多くの陣地を構築していた。

 4月11日、アメリカ軍が嘉数陣地への総攻撃を行ったが、日本軍はすべての拠点の防衛に成功。翌日には逆に日本軍が大規模な夜襲作戦を敢行した。しかし、これも失敗に終わる。

 アメリカ軍は日本軍の陣地が強力であると判断し、砲撃と爆撃による攻撃に切り替えた。さらに新兵器である火炎放射器を用意する。

 4月19日、アメリカ軍は日本軍陣地に大量の砲弾を撃ち込み、戦車とともに総攻撃を開始した。しかし日本軍の陣地は健在で、速射砲や高射砲による反撃を受けて戦車22両を失った。

 アメリカ軍は嘉数陣地の攻略をあきらめて迂回、後方の伊祖陣地を攻略。日本軍は奪還を図ったものの失敗に終わり、嘉数陣地を放棄して第2防衛線まで後退した。

日本軍の総攻撃

 日本軍は最後の抵抗とばかりに、総攻撃を計画する。正面から攻撃する部隊、後方から襲撃する部隊、敵の退路を断つ部隊に分け、火砲200門と95式戦車11両を用意した。

 5月3日に総攻撃が開始され、この攻撃に合わせて台湾から25機の神風特別攻撃隊が飛び立った。特別攻撃隊は駆逐艦3隻を撃沈し、軽巡洋艦1隻と駆逐艦6隻に損害を与えた。さらに九州からも特別攻撃隊が飛び立った。

 一方で陸上部隊には次々と壊滅し、5日に攻撃は中止された。

首里放棄

 5月20日、日本軍は首里の放棄を決定する。

 雨天に合わせて撤退する日本軍と住民の行列は、26日にアメリカ軍に発見され、空と海から激しい攻撃を受けて多くの犠牲者を出した。

 さらにアメリカ軍は退路を断つために動いたが、日本軍は大砲を撃ちまくって退路を死守した。首里からの撤退で日本軍は2万人の兵力を失った。

 6月4日、日本海軍部隊が駐屯していた小禄(おろく)飛行場にアメリカ軍が上陸。海軍部隊は応戦して全滅した。

 首里から撤退した日本軍は国吉丘陵で抵抗し、アメリカ軍の戦車21両を撃破する。18日にはアメリカ軍のバックナー指揮官が視察中に砲撃を受けて戦死。アメリカ軍は首里の戦い以降、8千人以上の死傷者を出した。

 6月22日、第32軍の司令官、牛島大将が自決。この日をもって日本軍の沖縄における組織的な戦闘は終了した。

 沖縄では多くの住民が戦闘に加わることになったため、終戦時には男女比率が4対6、20~45歳の男性は3パーセント以下という異常な人口構成になってしまった。