第二次世界大戦の解説

沖縄戦その3 ~沖縄県民かく戦えり~

  5月20日、アメリカ軍は首里の目前に迫っていた。

 長参謀長はすぐにでも玉砕するつもりだったが、八原高級参謀や師団参謀長は首里の放棄を支持した。牛島司令官は首里の放棄を決定する。

 アメリカ軍のバックナー司令官は、日本軍が首里を放棄することはないと考えていた。こうした中、沖縄は梅雨の時期に入り、アメリカ軍は偵察機を飛ばせなくなった。

義烈空挺隊の襲撃

 5月24日、義烈空挺隊が読谷飛行場を襲撃した。

 12機で熊本を飛び立った義烈空挺隊は、沖縄の読谷飛行場に突入。対空砲火をかいくぐった1機が滑走路に胴体着陸した。日本兵が飛び出し、アメリカ軍の航空機を破壊し始めた。

 飛行機33機が破壊され、ガソリンが炎上、アメリカ兵2名が死亡し、18名が負傷した。戦闘が終わると、飛行場には10人の日本兵の遺体が残っていた。

首里退却戦

 退却する日本軍は5月26日にアメリカ軍に発見された。行列はアメリカ軍の空と海からの激しい攻撃にさらされたが、その中には多数の住民が混じっていた。アメリカ軍の記録によると、このとき1万5千人の住民が死亡した。

 5月29日、首里に星条旗が掲げられた。

 アメリカ軍は首里からの退却路を遮断しようとした。日本軍は残った大砲を撃ちまくり、退却路を死守した。首里を脱出するときの日本軍は5万人だったが、退却後には3万人に減っていた。

沖縄県民かく戦かえり

 沖縄南部の島尻地区には自然壕が多く存在したが、日本軍はアメリカ軍に次々に陣地を奪われ、後方の自然壕を新たな陣地とした。このとき、先に避難していた住民は追い出された。

 6月4日、日本海軍部隊が駐屯していた小禄(おろく)飛行場にアメリカ軍が上陸する。牛島司令は撤退を命じたが、大田司令官は退却しなかった。

 6月6日、大田司令官は沖縄県民の献身的な協力ぶりを打電した。文章は「沖縄県民かく戦かえり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」で結ばれている。

 6月11日に大田司令官は自決した。

国吉丘陵の抵抗

 国吉丘陵では日本軍が激しい抵抗を見せた。

 6月11日から13日にかけてアメリカ軍は機関銃による攻撃を受け、140名が負傷した。そこで戦車を投入したものの、逆に速射砲に狙い撃ちされ21両が破壊された。

 日本軍の抵抗は17日まで続き、この間にアメリカ軍は1150名の死傷者を出した。

牛島司令の自決

 6月18日、アメリカ軍のバックナー指揮官が視察中に砲撃により戦死した。アメリカ軍は首里の戦い以降、8千人以上の死傷者を出していた。

 6月22日には牛島司令官と長参謀長が自決した。牛島司令官は最後の命令で戦いを続けるよう指示を出していたが、玉砕命令は出さなかった。この日をもって、アメリカ軍は沖縄戦の終結としている。

 終戦時、沖縄の人口比は男性が38%、女性が62%という異常な数字になっていた。また、20~45歳の男性は全体の3%以下にまで減っていた。