第二次世界大戦の解説

沖縄戦その2 ~日本軍の撤退戦~

 戦艦大和が沈没した頃、アメリカ軍は南進し、首里に迫っていた。

嘉数陣地の攻防戦

 宜野湾市の嘉数では、日本軍とアメリカ軍の攻防が続いていた。嘉数は首里までわずか4キロメートルに位置する重要拠点だった。嘉数はあらかじめいくつもの陣地が構築されていた。

 4月11日、アメリカ軍は嘉数陣地への総攻撃を開始したが、日本軍守備隊はすべての陣地防衛に成功した。

 翌日、日本軍は大規模な夜襲作戦を敢行する。一部の部隊は宜野湾まで進出したものの、全滅した。この夜襲は長(ちょう)参謀長が強行したものだった。長参謀長は持久戦を好まぬ短気な性格だった。

アメリカ軍の大攻勢

 アメリカ軍はいったん攻勢を控えた。

 大砲を大量に使用し、一気に日本軍の防衛線を突破する作戦に切り替えることにしたのである。日本軍陣地に激しい爆撃を加え、新兵器の火炎放射器を配備した。

 4月19日、アメリカ軍の大攻勢が始まる。日本軍陣地に大量の砲弾を撃ち込み、戦車と共に攻撃を開始した。

 だが、日本軍の強固な陣地は破壊されていなかった。日本軍は速射砲や高射砲で反撃し、あるいは捨て身の攻撃によってアメリカ軍の戦車22両を撃破した。

 アメリカ軍の攻撃は失敗に終わり、被害はどんどん大きくなっていった。

日本軍の退却

 アメリカ軍では、嘉数陣地の攻略をあきらめて迂回し、孤立させるという意見も出された。そこで嘉数陣地の後方にある伊祖陣地を攻略した。

 日本軍は伊祖陣地の奪還を図ったが、失敗に終わった。日本軍は嘉数、西原、棚原の陣地を維持していたものの、これ以上の抵抗が不可能であることは明らかだった。

 第32軍はこれらの守備隊を退却させ、第2防衛線の防衛を指示した。

 4月24日、アメリカ軍が戦車と火炎砲装甲車で嘉数陣地に攻め込むと、600の日本兵の遺体が残されていた。

日本軍の総攻撃

 4月27日、沖縄県庁の防空壕で沖縄県知事と市町村長の会議が開かれた。第32軍の司令部も出席していた。

 首里も連日の爆撃を受けていたが、戦況を知らない知事や市町村長からは攻撃を強化してアメリカ軍の砲撃を封じ込めるよう要望が出された。

 4月29日、ふたたび第32軍は総攻撃を計画した。第32軍司令部は悲壮感に包まれていた。牛島司令官も全滅を覚悟していた。

 5月3日、日本軍は総攻撃を開始した。

 アメリカ軍を後方から奇襲する部隊、正面から攻撃する部隊、敵の退路を断つ部隊に分担し、約200門の火砲が火を噴いた。95式軽戦車11両が出撃した。

 さらにこれを支援するため、台湾からは25機の特別攻撃隊が出撃した。特別攻撃隊はアメリカ軍の駆逐艦3隻を撃沈、軽巡洋艦1隻と駆逐艦6隻に損害を与えた。翌日には九州からも特別攻撃隊が出撃した。

 しかし陸上部隊は苦戦し、全滅する部隊が相次いだ。5月5日、牛島司令官は総攻撃を中止する。日本軍は多くの戦力を失った。

首里放棄

 5月20日、アメリカ軍は首里の目前に迫っていた。

 長参謀長はすぐにでも玉砕するつもりだったが、八原高級参謀や師団参謀長は首里の放棄を支持した。牛島司令官は首里の放棄を決定する。

 アメリカ軍のバックナー司令官は、日本軍が首里を放棄することはないと考えていた。こうした中、沖縄は梅雨の時期に入り、アメリカ軍は偵察機を飛ばせなくなった。